男二人ではどうしようもない

(時々まともな言葉が!?
 母の短期記憶障害はかなりひどくなった。もう何も新しい記憶が入らないのではと思うほどだ。でも,ある日,母は,ニコとして「まさと君,メタボリックシンドロームにならないようにね。」って言ったことがあった。この言葉が世の中で頻繁に言われるようになったのは,母が認知症になった後だけど,母は覚えたみたいだ。よほど気に入ったのかなこの言葉。
 この二年くらいの間に,母の認知症はだいぶ進行したと思う。短期記憶障害と見当識障害は深刻な状態となり,判断能力も著しく低下して,会話の内容がかみ合うこと自体もほとんどなくなってきた。ただ,かみ合わないことを気にしなければ楽しく会話はできる。僕も父も,そういう会話にいつのまにか慣れてきた。
 が,たまに,突如まともな事を言うことがあって驚かされる。
 たとえば,夕方の電話の際,いつもそういうとおりに「(T町へ)あした連れていってあげるよ」と言うと,「仕事は?」って母が言うので,「休むから大丈夫」と言うと「それはあかん!それはあかんわ」と言い,我に返ったように「わがまま言うてごめんな」と言うので大いに驚いた。C子も夜中に父を支援するために実家に行った際,母に「自分の仕事や家事をほったらかしにしてまで,ここに来なさんな。」と怒られたことがあったらしい。また,S太が(ネフローゼという小児性の疾患で)何度目かの入院をしたことを伝えると,心配してくれて,(短期記憶障害ゆえ)入院期間を何度も聞いた後,「成長するにつれて治ることもあるから・・・」と言って慰め励ましてくれたが,大いに驚き,僕は思わず母の顔を見つめた。
 一喜一憂。まるで,接触不良の部品が時々接触し,その瞬間ラジオが突如聞こえるようになるみたいだ。
 連日,深夜まで避難等の対応を余儀なくさせたというのに,母は,何事もなかったかのように,その翌日の夕方の電話では,明るい声で電話をかけてきて「今,お父さんと食事中なの。生駒市Z町で,二人でのんびり暮らしています!」と言う。んーそれはお母さん,とても正確な報告です。嬉しくて,昨夜の対応の疲れも吹っ飛ぶようです。

 別の日,GPSを使用しての徘徊作戦をとって母の平穏を取り戻した後,母の様子を探るために家に電話をしたとき,似たような電話となっていた。母は明るい声で「今,テレビ見せてもらってるんだけど,すごく綺麗。いいテレビが置いてあるのよこの家には。」と言う。でも,それはお母さん少し変です(そこは自分の家で,そこには以前からそのテレビがあるからね)。変なので,どうかなと思ったが,その晩はそのまま寝たらしい。
 正気に戻ることよりも,心穏やかにいさせることが重要なのかなと思った。

 母は時々,僕にこう言う。「年をとった。もう65歳。実家に残してきた子ども・・まさととかも気になるし」と。ここに言う「まさと」は,母が実家に残してきた子どものこと。じゃあ目の前にいる僕は誰ですか?口には出さずに僕は母に聞いた。
 また,ある日の夕方は,母は電話で,「お父さんと話してたんだけど・・・私たちも年をとったし,・・・一緒に住むことはできないだろうか?」と言った。僕は忙しかったので,そこそこの対応で電話を切ったが,だいぶ経って,え?もしかして,あのときは,僕のことを「子」と分かっていたのか?聞けばよかった!!と後悔した。
 翌朝,僕は,母が一人で僕の事務所を訪ねてきた夢を見た。母は,僕が独立したことを知らず,まだ僕の事務所を見たこともないのだ。

(男二人ではどうしようもない)
 これまで敢えて考えないようにしていた。
 母は自分でトイレに行っていた。それで良し。
 汚していないかとか,着替えをどうしていたかは考えなかった(きっと誰かが着替えさせてくれているだろう・・・)。考える余裕など全くなかった。ヘルパーさんが定期的に来るようになってからは,必要があればヘルパーさんが何か対応を考えてくれるんじゃないかと思っていた。また,妹も時々来てくれていたので,さすがに妹が気づいて何とかしてくれているのではないかと思っていた。
 ただ,時々トイレの場所が分からなくなっている様子だったから,トイレのドアに「トイレ」と書いた紙を貼ったということは父から聞いた。
 いつの間にか,リハビリパンツをはくようになっていた。
 もう何年も,母が風呂に入ったということは聞いたことがなかった。実際どうなってたんだろう(今となっては,父に聞いても正確な答えが見込めない。)。デイサービスで風呂に入れようとしたことがあったらしいが,ほとんど失敗で,かろうじて濡れタオルで拭いてもらっていたようだった。
 男だけではどうしようもない。
 ある日,父から電話があり,父が僕に「お母さんがお腹痛いって」と言うから母に電話を替わると,母は「おしっこ出るとこが痛い。」と言った!!
 母は,まだ若いころに子宮筋腫を患い,子宮をとる手術をしていたはず。このことがあって病院が嫌いになり,この頃から体調が悪く,いつも家で寝ていた。ただ,手術を担当した中森先生に対しては全幅の信頼を置いていたようだった。もしかしたら,この既往症が関係するのかもと思って調べたが,中森産婦人科はもうなく,同じ場所にある産婦人科ではカルテを引き継いでいなかった。一番近い女医の産婦人科を探したので明日連れていこうと思って,父に電話をし様子を聞いたら,「寝かせた」ということだった。寝られたのであれば緊急性はないのかなと思い,その日は僕も寝た。翌日,朝から,「痛がって泣いている」と父からメールが来た。病院に連れていく準備もしながら,先にC子に様子を見に行ってもらうと,母は「寝てたら大丈夫」と言って,やはり病院に行こうとはしなかった。C子は塗り薬を買って持っていったが,塗ってあげたということなのだろうか。

 C子は,来年2月に結婚し,直ちに夫とともに3年間海外へ行くことになったらしい。この頃聞いたが,C子がいなくなったらどうすればいいのだろうと思った。

(C子の支援なき後の対策を)
 実家の近くに宿泊可能な第二事務所を置き,深夜でも実家の支援に来られるようにしなければならないと思った。仕事を兼ねずに,もっぱら支援するためだけに,仕事を終えた後,たとえば深夜に,しばしば自宅(大阪)と実家(生駒)を往復するのはとても辛いし,無理だろうと思った。
 そういえば,ある遺産分割事件で,被相続人の娘が「母の調子が悪い晩は,たとえ夜中であっても,大阪から生駒までタクシーに乗って母に会いに行って泊まってあげていました。そんなことはしばしばありました。」と言っていたのを思い出した。そのときは,何で,そこまでしてあげる必要があるのかよく分からなかったが,今は分かる。

 ある日,実家で,父に,第二事務所の計画を話した。いずれ作らなければと思っていたが,C子が結婚して海外に行くので,計画を前倒しにしようと思うと話した。しかし不安も多いと言った。すると,横で二人の話を聞いていた母が突然,「何か新しいことを始めるときは,いつも不安があるものだけど,それは勇気をもって乗り越えるべきよね。」って言った。「え?今,お母さん何て?」僕と父は,同時に母を見て,その後,同時に顔を見合わせて,「今,お母さん,まともなこと言ったの?」と言い合って笑った。
 不思議なできごとだった。本当は認知症ではないのに,僕に何かをさせるために認知症のフリをしているのではないかと疑いたくなるほどだった。
 しかし母は,もう,いつもの母に戻っていた。