父の避難場所

 第二事務所は,平成20年11月にできた。
一階が事務所で,二階は居宅。二階は主として父の避難場所に使い,深夜の対応をした場合などは僕の宿泊場所にしようと思った。
平成20年11月22日,事務所二階を初めて父の避難場所に使った。父は,部屋に入り,僕が用意していたスルメをかじり,焼酎のお湯割りなどを飲み,僕が用意していた背もたれ付きの座椅子にもたれ,テレビを見ながら,母が寂しいモードになるのを待ったはずだ。

(年末も年始も関係ない)
日にちも季節も分からない母には,大晦日も元旦もなく,「大晦日だから大人しくしておいてやる」なんて考えは毛頭ない。容赦なく父と僕に試練を与え続けた。
平成20年12月31日。
まずは,12時39分に父から電話(気づかず不在着信に)があり,次は13時26分に母から電話があった。出ると,いきなり「どういうこと!どうなってんの?!直ぐに来てちょうだい!」と母は言い,僕の答えも聞かずにガシャーンと電話を切った。父は,避難を兼ねてスーパーへ買い物に出た。途中,母へ電話をして母の状態の変化を探ったが,怒りは静まったものの,「寂しい」とは言わず,「お父さんは?」と聞いてもそれには答えず,ただ「誰もいない」と答えるのみだった。ただし,買い物を終えた父は無事に家に入れたようだったので,そのまま様子をみることにした。
僕は夕方,自宅の近くにある大阪城に行きランニングコースを2周走って家に帰った。シャワーを浴び,夕食に出ようとしたとき,母からの電話が始まった。
 ①19時51分,②57分,③20時0分,④20時5分,⑤10分,⑥19分,⑦36分,⑧51分,⑨58分,⑩21時0分。
僕は,いつもとおり,毎回電話に出て,「明日遊びにいくからね」など優しく話しかけて回復を目指したが,効果はなく,⑪21時13分,父は「別荘に行く」と言って第二事務所の二階へ向かった。すると,⑫21時15分,直ぐに母から電話が入るが怒りまくっており,⑬21時57分の電話でようやく「寂しい」モードになった。
母は「いつもなら,お父ちゃんから電話があって『何時ころ帰るからな』って電話があるのに,今日はそれがあらへん。」と僕に訴え,僕が「山竹会の忘年会では?」と言うと,母は「山竹会はいつも早いよ。もう10時やし。」と答える(←これは正しい!)。これに対し僕が「じゃあ,もう帰ってくるんじゃない?」と明るく言うと,母は悲観的な声で「そんなことあらへん。お父ちゃんが帰るとしたら,三重県○○郡T町○○なんやから。」と言う(←やはりおかしい。「お父ちゃん=祖父」のままだ。)。が,すっかり寂しいモードになっていたので,父に電話をし,家に帰ってもらった。

平成21年1月1日は,電話8回でなんとか凌いだ。

平成21年1月2日は,単身赴任から帰ってきていた妻と,S太と父母の四人で墓参りに行き,夜には第二事務所の二階で,義父母をあわせて7人で鍋をつついて楽しく過ごした。楽しく過ごせたから母は穏やかで,今夜はこのまま無事に終わるのかなと思いきや,父母も義父母も帰った後の24時1分,母から電話がかかってきて,神妙な声で「すぐ来て」と言われた。父に電話すると,父は既に避難の準備をしていたが,母が「どこに行くのか!」と言って追いかけてくるため外に出られない状態だったので(父が漫然と外に出ると,そのまま母も一緒に外に出てしまうから),例によって僕は,実家の固定電話を鳴らし,母の注意をそちらに向け,その隙に父が外へ出るという作戦を実施した。
門扉の外側につけた蝶番を二つともに掛けることを忘れないようにと,父に対し電話で念押しした。一つでは,母が手を伸ばし,門扉を開けて外に出てしまう可能性があったからである。
24時25分(1月3日午前0時25分)に父は第二事務所へ避難し,25時30分(1月3日午前1時30分)に実家に戻り,ようやく解決した。

平成21年1月3日,この日は,①14時18分,②15時19分,③22分に電話があり,この電話で母から「直ぐ来て」と言われた。④15時46分にも催促の電話があり,⑤16時11分の父からの電話で「お母さん出ていってしまった」と告げられた。母は防寒着もGPSもなしで出たので,父は必死で尾行し,その後声をかけて連れ戻してことなきを得た。
この日は大阪の義父母宅で夕食をとった。僕は年賀の酒を持参したが,何か予感がしたので飲まなかった。予感は的中し,義父母宅から自宅に帰る頃に,母は再び不穏となり,母から,⑥21時15分,⑦19分,⑧21分,⑨35分,⑩39分と電話が入り,このとき父は第二事務所の二階へ避難をし始め,僕も,S太に留守番をさせて大阪の家を出て実家に向かった。⑪22時42分,第二事務所に到着し,母が「寂しいモード」になっていたのを確認したので,父を第二事務所から実家に送り,いったん大阪に向けて帰路についたが,高速道路から降りて帰宅直前の⑫23時16分,父から,「あかん。お母さん怒りまくってる。」と電話があったので,やむなく高速道路を折り返し,再び実家へ向かった。
父はこの日の晩既に一度避難していたので,二度目の避難を要請するのは忍びなく,僕が行くまでの間,実家の奥の和室などに隠れておくように言った。僕は0時半頃実家に着いたが,父は既に母に見つけだされて,罵り雑言を浴びせられているところだった。なぜかアンカとスリッパを手放さない母に,僕は優しく話しかけ,「T町に帰ろう」と誘ってようやく車に乗せた。車を出すと,僕は母にいろいろと話をし始めた。母は娘時代にいると思われたので,お父ちゃん(僕の祖父)の話をしてみた。「お父ちゃん,心配して待ってるかなあ?」と話しかけてみた。期待どおり,ハッという顔になり,「お父ちゃん,帰るのが遅いとすごく怒るのよ。」と困った顔になったので,すかさず「あ,大丈夫。さっきお父ちゃんに電話しておいたから。今日は仕事を遅くまで手伝ってもらってたから遅くなりました。でも,今から帰りますからご心配なくって言っておいたから。」「そしたら,お父ちゃんは『おうそうか。じゃあ気をつけて帰ってこいよー』って言ってはったよ」と言う。するととても安心した顔になり,母は落ち着きを取り戻したように見えた。実家の近所を大きくグルッと一周しているに過ぎないのだが,途中,何度も,「あと20分くらいでT町に着くよ。」「そう?ありがとう」と言う会話を繰り返しながら,母の様子を見ていた。しかし,娘時代から今に戻ってくる気配はなかった。 試しに,「お母さんには子どもがいるの?」って聞いても,当然のことながら「私,結婚してないよ。」という回答が帰ってきた(ただ,「お母さん」という呼び方がおかしいとの指摘はない。)。試しに,「俊彦って人覚えてる?」と聞いたが「知らん」という答え。まだ出会ってないらしい。
30分ちょっとドライブした後,第二事務所の前の駐車場に車を停め,「さあ,あと少し歩いたら着くよ。」と言って二人で歩いて実家に向かった。母に分からないように父に対し「母は落ち着いている。間もなく帰ります。」とメールを打って知らせた。
1時30分頃実家に帰宅すると,玄関は電灯がついていて,ドアが開かれていた。 母は,門をくぐると,「お父ちゃーん。はるみー。帰ってきたよー。」って嬉しそうに石段をひょいひょいと上り家の中に入っていった。母の実家に帰ってきたつもりなのだろう,後ろから見ていると,まるで少女のようだった。「お父ちゃん」と言ってるし,母の実家と思っているから,正気に近い状態に回復していないことが明らかだったが,母の帰りを心待ちにしていた父が,玄関で(きっと)目を真っ赤にして母を迎え,ひしって抱きしめていたので,(お父さんそれでいいの?)まあいいかと思った。
大阪に戻ったのは午前2時過ぎ。S太はもちろん眠っていた。

(C子の結婚と海外赴任)
平成21年2月8日,C子は身内だけの簡単な披露宴を奈良町で開催した。結婚相手は僕より4歳くらい年上の人だったがずいぶんと若く溌剌として見えた。優しそうな男で,C子の顔も明るく輝いていて本当に幸せそうだった。
母の機嫌と天気が良いことだけを祈ってこの日を迎えたが,天気はとてもよく,奇跡的に,母は披露宴の間ずっと機嫌がよかった。初対面の相手方の親族ともそつなく挨拶ができ(たように見え),もしかしたら認知症と分からなかったかもしれないと思うほどだった。
もっと不思議なことは,この日以降,母が父や僕に対し「C子にいい人いないかな」と全く言わなくなったことだった。
僕のことはずいぶん前に,自分の子とはわからなくなっていたが(ただし「まさと」という名の若い男だとはわかっている。),C子のことは,最近まで自分の子とわかっていたと思われたからである。かといって,この日C子が結婚したのだと理解はできず,自己紹介を受けたC子の結婚相手をそうだと理解したとは思えなかったからである。
C子の結婚は母と父の切なる願いであったから,二人にとって最良の日となった。 この日の母の体調はとてもよく,猿沢池から興福寺へ向かう石段を快調に登りきった後振り返り「お父さん!遅いよー!」と言うほどであった。
僕も幸せだった。

※第1部(第1話~第11話)における居住状況は以下のとおり。
 父と母は「生駒市Z町1丁目2番3号」に二人で居住(実家)。
 まさとは,大阪の天満橋にS太と二人で居住(妻は単身赴任中)。
 まさとの職場は,大阪・北浜(第一事務所)だが,生駒市Z町に第二事務所を設けた(第10話~第11話)。