息子じゃなくなった日

 もともと母はあまり物を捨てず,何でもとっておくから,家の中が物であふれかえっており,いつの間にか応接間が物置になって使えなくなってはいた。ところが,ある日実家を訪ねたとき,台所や居間にも見慣れぬ物が置いてあったので父に聞いたところ,母が運び込んだとのことだった。動かすと怒るらしいので,僕もそのままにしていたが,母が不思議そうに「これ誰の?なんでここにこれがあるの?わけわからへん。」と言っていた。この日は,気分転換にとS太のDVDをかけても集中力が全くなかった。
 母は間違いなく認知症。短期記憶にかなり障害が生じているから。しかし,まだ専門医の診察を受けて確認したわけではなかったし,内科医のH先生も,僕は専門じゃないから,早く専門の医師にも診てもらった方がよいよと言っておられた(治る認知症もあるからね)。
 そこで,平成19年12月11日,ようやく,脳神経外科でMRIを撮ってもらった。母はMRIの音が怖く,じっとしていることができなかったので,撮影にはずいぶんと困難を来しているようだった。それでも,ようやく撮影が完了し,先生に診断してもらったところ,脳全体が萎縮し,とりわけ海馬が萎縮しており,明らかにアルツハイマー型認知症であると診断された。ずいぶんと進んでおり,アリセプトはもうあまり効かないのではないかとも言われた。当然の結論だとも思ったが,やはり,はっきり言われるとショックだった。父は,あの状態を見てきているのに,「認知症ではない」のではないかとさえ思っていたらしく,そのショックは見るからに大きかった。「もう治ることはないんですよね」と言い,涙をあふれさせていた。

 いつのことだったかは,もう思い出せない。
 最初に,もしかして母が僕のことをわかっていない?と思った瞬間があったはず。でも,それがいつであったかは忘れてしまった。あまりにも恐ろしい出来事だったから,僕の脳が,防御的本能的に記憶を消したのかもしれない。また,「僕のことがわかっていない?」と思った最初の瞬間は,母が不穏でいる数時間の間に起きた事柄だったので,その後平常に戻ったときには当然に僕のことも思い出しただろうと思って安心したからかもしれない。
 平常に戻っているはずなのに,僕のことがわかっていないということを思い知る瞬間もあったはず。でも,何でそれを知ったのかがやはり思い出せない。ただ,それを知ったのは実家に泊まった日の夜であったことはたぶん間違いがない。なぜならば,翌朝,両親がまだ寝ている間に僕は実家を出て,最寄りの駅に着くまで,母がとうとう昨夜「僕のことが本当にわからなくなった!」「これは夢ではない!」とつぶやき,泣きながら坂を下っていたときのことをはっきり覚えているから。でも,このことで泣いたのはこの日の朝だけだった。この日の朝,僕は,ようやく母の認知症を受け入れたのだと思う。

 「僕のことがわからなくなった」とは,僕が息子であるということがわからなくなったということ。このことがわかったのは,たとえば,「C子に良い人いないかしら?まさと君はどう?C子とつきあってみたら?」という言葉だったかもしれない。要するに,妹は自分の子とわかっているのに,僕が自分の子とわからない状況である。母が不穏になっても,僕が話しかけると少し回復することが多いので,「やっぱり息子さんが話すと違うねえ」とケアマネやヘルパーは言って信じないが,それは僕が話し方を工夫しているからに過ぎない。母は僕が息子であるとはわかっていないのだ。
 しかし,その後も長い間,母は,僕の名前が「まさと」であるということ自体は覚え続けており,敢えて気にしなければ,母の僕に対する話し方は見た目はあまり変わらず,息子に話しかけているようにも見えるから,このことは,それほど辛いことではなくなった。

(見当識障害)
 そういえば,ずいぶん前に,「ちょっと外に出たの。いい所だなあと思いながら・・・家を出たときは明るかったのにすぐに暗くなってきて,気づいたら迷ってた。こんなこと初めて・・・」と泣きそうな声で電話で話してたときがあったが,それが徘徊の始まりであったのかもしれない。要するに,自分が「地理的」にどこにいるのかが分からなくなるということ。また,徘徊が頻繁に起きるようになったころ,母はしばしば娘時代に戻り,僕が小学校のときに死んだおじいちゃんやおばあちゃんが生きていることになったが,要するに,自分が「時間的」にどこにいるのかが分からなくなるということ。そして,いつのまにか,自分が「身分的」にどこにいるのかも分からなくなっていたということである。でも,少し考えたらあたりまえだ。母が娘時代に戻ったら,僕はまだこの世に存在していないから。そういえば,そのときは,父もまだ母と出会っておらず,それ故,しばしば父の身分的な位置づけがあいまいになるから,父は「俊彦おじさん」と位置づけられて大切にしてもらえるか,「不審者」が家に入り込んだと位置づけられて,激しく排除されるかのいずれかになっていたのかもしれない。

 それでも,会って話しているときにふと,母から「最近,息子はあまり帰ってこなくてね・・・」っと言われたり,電話で普通に話している最中に,「ところで,真人くんのご両親はお元気なの?」と言われたときは,一瞬言葉を失うが,繰り返されることにより慣れて,間もなく笑えるようになった。
 ある日は,父や妹もいる夕食時に,母が,「俊彦がC子に好意をもっていた」とか,「俊彦が自分にも好意をもっている」とか言うので(後者は正しいが),「お母さん何かおかしいよ」って笑って指摘すると,母も笑った。

 突然親に死なれると辛過ぎるので,死ぬ前に認知症になり,徘徊して少し困らせ,息子とわからなくなって少し悲しませ,言葉のやりとりを徐々に減らし,感情的にも距離を置かせて,少しずつ,別れの日のための心の準備をさせてくれているのだと思う。

 平成20年6月,父と僕は母を連れて,矢田寺に紫陽花を見に行った。母は紫陽花が大好きなので上機嫌で歩き回っていた。天気も良く,とても気持ちのいい日だった。父と僕は,「連れてきてよかったね」と言い,後ろを歩いているはずの母を振り返ったら,母の手には紫陽花の枝がしっかりと握られており,母は,更に二本目の枝を物色していた。「あっ!」父と僕は同時に声をあげた。僕は母に駆け寄り,「これ僕が持っといてあげるね」と言って紫陽花の枝を母から受け取り,素早く母の見えない場所に回り,紫陽花の茂みの中に枝を隠した。ああ,驚いた。よっぽど紫陽花が気に入ったのだなと思った。そして,本当に連れてきてよかったと思った。