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父の避難場所

 第二事務所は,平成20年11月にできた。
一階が事務所で,二階は居宅。二階は主として父の避難場所に使い,深夜の対応をした場合などは僕の宿泊場所にしようと思った。
平成20年11月22日,事務所二階を初めて父の避難場所に使った。父は,部屋に入り,僕が用意していたスルメをかじり,焼酎のお湯割りなどを飲み,僕が用意していた背もたれ付きの座椅子にもたれ,テレビを見ながら,母が寂しいモードになるのを待ったはずだ。

(年末も年始も関係ない)
日にちも季節も分からない母には,大晦日も元旦もなく,「大晦日だから大人しくしておいてやる」なんて考えは毛頭ない。容赦なく父と僕に試練を与え続けた。
平成20年12月31日。
まずは,12時39分に父から電話(気づかず不在着信に)があり,次は13時26分に母から電話があった。出ると,いきなり「どういうこと!どうなってんの?!直ぐに来てちょうだい!」と母は言い,僕の答えも聞かずにガシャーンと電話を切った。父は,避難を兼ねてスーパーへ買い物に出た。途中,母へ電話をして母の状態の変化を探ったが,怒りは静まったものの,「寂しい」とは言わず,「お父さんは?」と聞いてもそれには答えず,ただ「誰もいない」と答えるのみだった。ただし,買い物を終えた父は無事に家に入れたようだったので,そのまま様子をみることにした。
僕は夕方,自宅の近くにある大阪城に行きランニングコースを2周走って家に帰った。シャワーを浴び,夕食に出ようとしたとき,母からの電話が始まった。
 ①19時51分,②57分,③20時0分,④20時5分,⑤10分,⑥19分,⑦36分,⑧51分,⑨58分,⑩21時0分。
僕は,いつもとおり,毎回電話に出て,「明日遊びにいくからね」など優しく話しかけて回復を目指したが,効果はなく,⑪21時13分,父は「別荘に行く」と言って第二事務所の二階へ向かった。すると,⑫21時15分,直ぐに母から電話が入るが怒りまくっており,⑬21時57分の電話でようやく「寂しい」モードになった。
母は「いつもなら,お父ちゃんから電話があって『何時ころ帰るからな』って電話があるのに,今日はそれがあらへん。」と僕に訴え,僕が「山竹会の忘年会では?」と言うと,母は「山竹会はいつも早いよ。もう10時やし。」と答える(←これは正しい!)。これに対し僕が「じゃあ,もう帰ってくるんじゃない?」と明るく言うと,母は悲観的な声で「そんなことあらへん。お父ちゃんが帰るとしたら,三重県○○郡T町○○なんやから。」と言う(←やはりおかしい。「お父ちゃん=祖父」のままだ。)。が,すっかり寂しいモードになっていたので,父に電話をし,家に帰ってもらった。

平成21年1月1日は,電話8回でなんとか凌いだ。

平成21年1月2日は,単身赴任から帰ってきていた妻と,S太と父母の四人で墓参りに行き,夜には第二事務所の二階で,義父母をあわせて7人で鍋をつついて楽しく過ごした。楽しく過ごせたから母は穏やかで,今夜はこのまま無事に終わるのかなと思いきや,父母も義父母も帰った後の24時1分,母から電話がかかってきて,神妙な声で「すぐ来て」と言われた。父に電話すると,父は既に避難の準備をしていたが,母が「どこに行くのか!」と言って追いかけてくるため外に出られない状態だったので(父が漫然と外に出ると,そのまま母も一緒に外に出てしまうから),例によって僕は,実家の固定電話を鳴らし,母の注意をそちらに向け,その隙に父が外へ出るという作戦を実施した。
門扉の外側につけた蝶番を二つともに掛けることを忘れないようにと,父に対し電話で念押しした。一つでは,母が手を伸ばし,門扉を開けて外に出てしまう可能性があったからである。
24時25分(1月3日午前0時25分)に父は第二事務所へ避難し,25時30分(1月3日午前1時30分)に実家に戻り,ようやく解決した。

平成21年1月3日,この日は,①14時18分,②15時19分,③22分に電話があり,この電話で母から「直ぐ来て」と言われた。④15時46分にも催促の電話があり,⑤16時11分の父からの電話で「お母さん出ていってしまった」と告げられた。母は防寒着もGPSもなしで出たので,父は必死で尾行し,その後声をかけて連れ戻してことなきを得た。
この日は大阪の義父母宅で夕食をとった。僕は年賀の酒を持参したが,何か予感がしたので飲まなかった。予感は的中し,義父母宅から自宅に帰る頃に,母は再び不穏となり,母から,⑥21時15分,⑦19分,⑧21分,⑨35分,⑩39分と電話が入り,このとき父は第二事務所の二階へ避難をし始め,僕も,S太に留守番をさせて大阪の家を出て実家に向かった。⑪22時42分,第二事務所に到着し,母が「寂しいモード」になっていたのを確認したので,父を第二事務所から実家に送り,いったん大阪に向けて帰路についたが,高速道路から降りて帰宅直前の⑫23時16分,父から,「あかん。お母さん怒りまくってる。」と電話があったので,やむなく高速道路を折り返し,再び実家へ向かった。
父はこの日の晩既に一度避難していたので,二度目の避難を要請するのは忍びなく,僕が行くまでの間,実家の奥の和室などに隠れておくように言った。僕は0時半頃実家に着いたが,父は既に母に見つけだされて,罵り雑言を浴びせられているところだった。なぜかアンカとスリッパを手放さない母に,僕は優しく話しかけ,「T町に帰ろう」と誘ってようやく車に乗せた。車を出すと,僕は母にいろいろと話をし始めた。母は娘時代にいると思われたので,お父ちゃん(僕の祖父)の話をしてみた。「お父ちゃん,心配して待ってるかなあ?」と話しかけてみた。期待どおり,ハッという顔になり,「お父ちゃん,帰るのが遅いとすごく怒るのよ。」と困った顔になったので,すかさず「あ,大丈夫。さっきお父ちゃんに電話しておいたから。今日は仕事を遅くまで手伝ってもらってたから遅くなりました。でも,今から帰りますからご心配なくって言っておいたから。」「そしたら,お父ちゃんは『おうそうか。じゃあ気をつけて帰ってこいよー』って言ってはったよ」と言う。するととても安心した顔になり,母は落ち着きを取り戻したように見えた。実家の近所を大きくグルッと一周しているに過ぎないのだが,途中,何度も,「あと20分くらいでT町に着くよ。」「そう?ありがとう」と言う会話を繰り返しながら,母の様子を見ていた。しかし,娘時代から今に戻ってくる気配はなかった。 試しに,「お母さんには子どもがいるの?」って聞いても,当然のことながら「私,結婚してないよ。」という回答が帰ってきた(ただ,「お母さん」という呼び方がおかしいとの指摘はない。)。試しに,「俊彦って人覚えてる?」と聞いたが「知らん」という答え。まだ出会ってないらしい。
30分ちょっとドライブした後,第二事務所の前の駐車場に車を停め,「さあ,あと少し歩いたら着くよ。」と言って二人で歩いて実家に向かった。母に分からないように父に対し「母は落ち着いている。間もなく帰ります。」とメールを打って知らせた。
1時30分頃実家に帰宅すると,玄関は電灯がついていて,ドアが開かれていた。 母は,門をくぐると,「お父ちゃーん。はるみー。帰ってきたよー。」って嬉しそうに石段をひょいひょいと上り家の中に入っていった。母の実家に帰ってきたつもりなのだろう,後ろから見ていると,まるで少女のようだった。「お父ちゃん」と言ってるし,母の実家と思っているから,正気に近い状態に回復していないことが明らかだったが,母の帰りを心待ちにしていた父が,玄関で(きっと)目を真っ赤にして母を迎え,ひしって抱きしめていたので,(お父さんそれでいいの?)まあいいかと思った。
大阪に戻ったのは午前2時過ぎ。S太はもちろん眠っていた。

(C子の結婚と海外赴任)
平成21年2月8日,C子は身内だけの簡単な披露宴を奈良町で開催した。結婚相手は僕より4歳くらい年上の人だったがずいぶんと若く溌剌として見えた。優しそうな男で,C子の顔も明るく輝いていて本当に幸せそうだった。
母の機嫌と天気が良いことだけを祈ってこの日を迎えたが,天気はとてもよく,奇跡的に,母は披露宴の間ずっと機嫌がよかった。初対面の相手方の親族ともそつなく挨拶ができ(たように見え),もしかしたら認知症と分からなかったかもしれないと思うほどだった。
もっと不思議なことは,この日以降,母が父や僕に対し「C子にいい人いないかな」と全く言わなくなったことだった。
僕のことはずいぶん前に,自分の子とはわからなくなっていたが(ただし「まさと」という名の若い男だとはわかっている。),C子のことは,最近まで自分の子とわかっていたと思われたからである。かといって,この日C子が結婚したのだと理解はできず,自己紹介を受けたC子の結婚相手をそうだと理解したとは思えなかったからである。
C子の結婚は母と父の切なる願いであったから,二人にとって最良の日となった。 この日の母の体調はとてもよく,猿沢池から興福寺へ向かう石段を快調に登りきった後振り返り「お父さん!遅いよー!」と言うほどであった。
僕も幸せだった。

※第1部(第1話~第11話)における居住状況は以下のとおり。
 父と母は「生駒市Z町1丁目2番3号」に二人で居住(実家)。
 まさとは,大阪の天満橋にS太と二人で居住(妻は単身赴任中)。
 まさとの職場は,大阪・北浜(第一事務所)だが,生駒市Z町に第二事務所を設けた(第10話~第11話)。

 

男二人ではどうしようもない

(時々まともな言葉が!?
 母の短期記憶障害はかなりひどくなった。もう何も新しい記憶が入らないのではと思うほどだ。でも,ある日,母は,ニコとして「まさと君,メタボリックシンドロームにならないようにね。」って言ったことがあった。この言葉が世の中で頻繁に言われるようになったのは,母が認知症になった後だけど,母は覚えたみたいだ。よほど気に入ったのかなこの言葉。
 この二年くらいの間に,母の認知症はだいぶ進行したと思う。短期記憶障害と見当識障害は深刻な状態となり,判断能力も著しく低下して,会話の内容がかみ合うこと自体もほとんどなくなってきた。ただ,かみ合わないことを気にしなければ楽しく会話はできる。僕も父も,そういう会話にいつのまにか慣れてきた。
 が,たまに,突如まともな事を言うことがあって驚かされる。
 たとえば,夕方の電話の際,いつもそういうとおりに「(T町へ)あした連れていってあげるよ」と言うと,「仕事は?」って母が言うので,「休むから大丈夫」と言うと「それはあかん!それはあかんわ」と言い,我に返ったように「わがまま言うてごめんな」と言うので大いに驚いた。C子も夜中に父を支援するために実家に行った際,母に「自分の仕事や家事をほったらかしにしてまで,ここに来なさんな。」と怒られたことがあったらしい。また,S太が(ネフローゼという小児性の疾患で)何度目かの入院をしたことを伝えると,心配してくれて,(短期記憶障害ゆえ)入院期間を何度も聞いた後,「成長するにつれて治ることもあるから・・・」と言って慰め励ましてくれたが,大いに驚き,僕は思わず母の顔を見つめた。
 一喜一憂。まるで,接触不良の部品が時々接触し,その瞬間ラジオが突如聞こえるようになるみたいだ。
 連日,深夜まで避難等の対応を余儀なくさせたというのに,母は,何事もなかったかのように,その翌日の夕方の電話では,明るい声で電話をかけてきて「今,お父さんと食事中なの。生駒市Z町で,二人でのんびり暮らしています!」と言う。んーそれはお母さん,とても正確な報告です。嬉しくて,昨夜の対応の疲れも吹っ飛ぶようです。

 別の日,GPSを使用しての徘徊作戦をとって母の平穏を取り戻した後,母の様子を探るために家に電話をしたとき,似たような電話となっていた。母は明るい声で「今,テレビ見せてもらってるんだけど,すごく綺麗。いいテレビが置いてあるのよこの家には。」と言う。でも,それはお母さん少し変です(そこは自分の家で,そこには以前からそのテレビがあるからね)。変なので,どうかなと思ったが,その晩はそのまま寝たらしい。
 正気に戻ることよりも,心穏やかにいさせることが重要なのかなと思った。

 母は時々,僕にこう言う。「年をとった。もう65歳。実家に残してきた子ども・・まさととかも気になるし」と。ここに言う「まさと」は,母が実家に残してきた子どものこと。じゃあ目の前にいる僕は誰ですか?口には出さずに僕は母に聞いた。
 また,ある日の夕方は,母は電話で,「お父さんと話してたんだけど・・・私たちも年をとったし,・・・一緒に住むことはできないだろうか?」と言った。僕は忙しかったので,そこそこの対応で電話を切ったが,だいぶ経って,え?もしかして,あのときは,僕のことを「子」と分かっていたのか?聞けばよかった!!と後悔した。
 翌朝,僕は,母が一人で僕の事務所を訪ねてきた夢を見た。母は,僕が独立したことを知らず,まだ僕の事務所を見たこともないのだ。

(男二人ではどうしようもない)
 これまで敢えて考えないようにしていた。
 母は自分でトイレに行っていた。それで良し。
 汚していないかとか,着替えをどうしていたかは考えなかった(きっと誰かが着替えさせてくれているだろう・・・)。考える余裕など全くなかった。ヘルパーさんが定期的に来るようになってからは,必要があればヘルパーさんが何か対応を考えてくれるんじゃないかと思っていた。また,妹も時々来てくれていたので,さすがに妹が気づいて何とかしてくれているのではないかと思っていた。
 ただ,時々トイレの場所が分からなくなっている様子だったから,トイレのドアに「トイレ」と書いた紙を貼ったということは父から聞いた。
 いつの間にか,リハビリパンツをはくようになっていた。
 もう何年も,母が風呂に入ったということは聞いたことがなかった。実際どうなってたんだろう(今となっては,父に聞いても正確な答えが見込めない。)。デイサービスで風呂に入れようとしたことがあったらしいが,ほとんど失敗で,かろうじて濡れタオルで拭いてもらっていたようだった。
 男だけではどうしようもない。
 ある日,父から電話があり,父が僕に「お母さんがお腹痛いって」と言うから母に電話を替わると,母は「おしっこ出るとこが痛い。」と言った!!
 母は,まだ若いころに子宮筋腫を患い,子宮をとる手術をしていたはず。このことがあって病院が嫌いになり,この頃から体調が悪く,いつも家で寝ていた。ただ,手術を担当した中森先生に対しては全幅の信頼を置いていたようだった。もしかしたら,この既往症が関係するのかもと思って調べたが,中森産婦人科はもうなく,同じ場所にある産婦人科ではカルテを引き継いでいなかった。一番近い女医の産婦人科を探したので明日連れていこうと思って,父に電話をし様子を聞いたら,「寝かせた」ということだった。寝られたのであれば緊急性はないのかなと思い,その日は僕も寝た。翌日,朝から,「痛がって泣いている」と父からメールが来た。病院に連れていく準備もしながら,先にC子に様子を見に行ってもらうと,母は「寝てたら大丈夫」と言って,やはり病院に行こうとはしなかった。C子は塗り薬を買って持っていったが,塗ってあげたということなのだろうか。

 C子は,来年2月に結婚し,直ちに夫とともに3年間海外へ行くことになったらしい。この頃聞いたが,C子がいなくなったらどうすればいいのだろうと思った。

(C子の支援なき後の対策を)
 実家の近くに宿泊可能な第二事務所を置き,深夜でも実家の支援に来られるようにしなければならないと思った。仕事を兼ねずに,もっぱら支援するためだけに,仕事を終えた後,たとえば深夜に,しばしば自宅(大阪)と実家(生駒)を往復するのはとても辛いし,無理だろうと思った。
 そういえば,ある遺産分割事件で,被相続人の娘が「母の調子が悪い晩は,たとえ夜中であっても,大阪から生駒までタクシーに乗って母に会いに行って泊まってあげていました。そんなことはしばしばありました。」と言っていたのを思い出した。そのときは,何で,そこまでしてあげる必要があるのかよく分からなかったが,今は分かる。

 ある日,実家で,父に,第二事務所の計画を話した。いずれ作らなければと思っていたが,C子が結婚して海外に行くので,計画を前倒しにしようと思うと話した。しかし不安も多いと言った。すると,横で二人の話を聞いていた母が突然,「何か新しいことを始めるときは,いつも不安があるものだけど,それは勇気をもって乗り越えるべきよね。」って言った。「え?今,お母さん何て?」僕と父は,同時に母を見て,その後,同時に顔を見合わせて,「今,お母さん,まともなこと言ったの?」と言い合って笑った。
 不思議なできごとだった。本当は認知症ではないのに,僕に何かをさせるために認知症のフリをしているのではないかと疑いたくなるほどだった。
 しかし母は,もう,いつもの母に戻っていた。

「誰もいないの」 警察が母にだまされた日

 父からのメールにも少し変化がみられた。たとえば,僕と母が電話をした後,その会話を母の横で聞いていた父は,「今日の夕方症候群は大変軽い。『明日午後帰ります』と言ってたでしょ。」とメールを送ってきた(今直ぐでなく,今晩でもなく,明日午後と言ってるから軽いねという意味。)。これに対し,僕が「工夫した?」と書くと,父は,「別に何もしてませんよ。古い写真を引っ張りだし,戸津の両親の話や姉さんの話でご機嫌でした。」と自慢げ。「古い写真や昔話はたぶんいいのでしょうね?」と返すと,父から「お父さんもそう思う。お休み。」と返ってきた。父に余裕が出てきたのがとても嬉しかった。
 また,ある日の午後1時半過ぎ,「母の調子が悪い(注;不穏ということ)から家を出た」とのメールを見逃していたが,気づいたときには既に解決していた。ただし,同じ日の午後8時半過ぎ,母からかなり不穏な電話が入った。僕は,次の電話くらいで,父に避難してもらうしかないなと思っていたが,10分後に父から来たメールには「解決した」と書いてあった。僕は驚いて電話をし「何で?普通悪化するやろ?」と聞くと,父は,パンダのぬいぐるみを使って何かしたら不穏が解消されたと説明をした。父は何かをつかんだのか?!

 こんな日があった。夕方,母から電話があり,聞くと「目が覚めたら誰もいなーい。誰かに来てほしい。」と泣きそうな声で訴えてきた。父は外出中なのかなと思いながら父の携帯に電話をするが出ない。父に何度電話しても出ないから,一大事!?(家で父が倒れているかも!?)と思い,事務所を出て実家に向かう準備をしていたら,父から電話がかかってきた。父は,「風呂に入ってた。(お母さんには)言ったのに・・・」と言う。ありうる・・・。

 また,こんな日があった。晩の9時半ころ,母から電話があり,聞くと「目が覚めたら誰もいないの。」と泣き声で訴えてきた。そこで,父の携帯電話へ電話をすると,父は実家の奥の和室に避難していた。今のうちに外へ避難して解決しておいた方がいいんじゃないか(夜中に避難するのは辛いし)と父に提案したが,父は,不機嫌に「行かれへんやないか,寝とるのに!」と言った。やはり母の不穏の原因の一つは,父の態度にもあるのかもと思った。特に父の無口なこと。母にはやはり話し相手が必要だと思う。そこで,母と話し,また母の様子を探るために,実家の固定電話に電話をかけたが誰も出ない。コールがつづくが父も出ない。どうやら父が電話線を抜いたらしい。母がいろんなところ(親戚や警察など)へ電話をするからだ。
 父は,仕事中の僕を煩わせないように一人で対処しようとしてくれていたのだが,かえって心配。別の日には,僕の知らないところで,自転車を転倒させて頭を打ったりしている(脳神経外科で診察受け無事を確認したが)し,やはり,このまま父に任せておくわけにはいかないと思う。

 平成20年10月8日はデイサービスに失敗し,夕方には,父が門を閉め忘れていたため母が外へ出てしまったが,父が家の近所で母を見つけて連れ戻した。その後,夜の三回目の電話の際に,母の不穏の程度をみて,僕と父は外への「避難」を決定した。この避難はこの日父の二度目の対応だったので,父を励ますために,僕はC子に支援を求めた。父が避難した後6分後には早くも母から電話があったが,「どうなってるの?誰もいないの。」と既に寂しいモードとなって僕に訴えてきた。僕は,もちろん父が避難中であることを知っているが,いつものとおり,「お父さんは?」などと言って会話を続ける。母は「お父ちゃん?」と聞き返す。「お父ちゃん」と言ってる間は娘時代モードであり時代設定が正しくないから,避難継続すべきである。そして,更に5分後にかかってきた電話では,母は「誰もいないのー。怖い。警察に電話したけど・・・」と言う。
 ん?なんか言ってたけど?まあいいか。
 10分経過後,母の様子を探るために,今度は僕から家に電話をしたら,男の声で「誰や!」と言われた。え?誰やて誰や?と思った。かけまちがえたかなと思った直後,「警察やけどお宅誰や」と聞かれて,ようやく状況がつかめた。警察が来てくれている!僕は事情を説明してお礼を述べた。父に事態を告げて帰宅してもらったが,ちょうどC子も実家に着いた。C子は母から「遅い時間にありがとう。ごめんね。」って感謝されたらしい(午後11時解決)。
 母はきっと警察官に「おかしな電話がかかってきて怖い」とか言ったのだろうと思う。でも,認知症の母にだまされる警察って・・・

デイサービスにチャレンジ

 ようやく,母お気に入りのヘルパーさんが現れた。僕や父やS太が誘っても滅多なことで外へ出かけることのなかった母なのに,その人が担当する日は機嫌がとてもよく,その人と一緒であれば,母は買い物や公園に出かけることもあり,僕と父は大いに驚いた。そのヘルパーさんにだけ頼みたいくらいだった。
 他方で「前のめりでお節介なケアマネのOさん」は,ヘルパーの導入からまだ間がないのに,もう,デイサービスのことで頭が一杯であるかのようだった。無邪気に,僕に対し,デイサービスを勧めてきた。
 確かに必要なことは間違いがない。深夜に母の対応を父としているとき,時々父は「もう,まいった・・・」とつぶやき,あるいはため息をついた。僕たちはしばらく沈黙した後,僕が「どうする?」と聞くと,父は「いや,大丈夫。」と言うが大丈夫ではない。最近は,母の事よりも父が心配で,父にばかり負担をかけていることが申し訳なくて仕方なかった。だから,デイサービスへ進むことはどうしても必要なことだった。でも,母の様子を見ていると,それが可能であるとは到底思えなかった。よって,僕はOさんに対し,「無理ですよ。母は基本的に外へ出ませんから。それと,短時間で気分が変わるし,母が悪態モードにあるときは何人も対応不可能で,母の前から逃げるしか対処方法がないし,デイサービスの最中にそうなったらどうするんですか?」,「Oさんはまだ母の悪態モードを見てないからそんな気楽なことが言えるだけ。」,「本当に凄いんだから」,「父のいないとこで,長時間,母が大人しくしているわけがないし。」と言うほかなかった。しかし,Oさんが譲らないから,とにかくチャレンジすることになったが,一回目は,やはり,デイサービスお迎えの時刻に母は起きず,あえなく失敗した。
 そこで,朝の苦手な母の為に,お迎え時刻を二段階に設定してもらった。最初のお迎えに失敗したら,他の家へ先に迎えに行ってもらった後,もう一度迎えに来てもらうことにした。しかし,二回目は,起きていたが機嫌が悪く,「行かないっ!」と言われて,やはり,あえなく失敗した。
 すると,Oさんは一計を案じ,次は,デイサービスの職員が一人で「お迎え」をするのに任せるのでなく,「送り出し」をするヘルパーさんを先に家に入れ,母を起床させ,着替えさせ,気分を整えさせて「お迎え」を待つ作戦を立てた。
 これが見事に成功し,何と!母はそそくさと知らない人が運転する車に乗っていった!!それは僕と父からすれば信じられない光景だった。なぜならば,母は,本当に気分の良い日でないと家を出ることがなかったし,誰に対しても疑い深く慎重な性質だから(だったと思うんだけど),知らない人が運転する車に乗るとは到底思えなかったからである。しかし,母は何の疑問もなく車にのっていった。確かに,車が出るとき「え?私だけ?」って感じの顔になっていたような気もしたが。
 案の定,約一時間後,デイサービス先から,母が「帰る!」と言って聞かないのでお迎えをお願いしますとの電話が入った。ちっ,ほうらね。迎えに行った。
 二度目も,何とか車には乗ったが,そのまま引き返してきた。父によると,家に帰ってきた母は運転手さんに対し,怖い顔を向け,歯を食いしばった顔で「二度と行きません!」と宣言していた。
 三度目,平成20年7月25日,初めてデイサービスに成功した(お迎え成功。昼間一度も電話連絡なく,機嫌よく帰ってきたので成功と認める。)。もちろん,滞在中不機嫌な時間帯も長かったと思うけど,一時的にしろ,他の人たちと一緒にテレビを見たり食事をしたり,心穏やかな時間も過ごした模様。この成功は本当に嬉しかった。Oさんありがとう!
 デイサービスの成功で,ようやく,父も僕も心が安まる時間ができた。心に余裕が生まれ,翌26日には近くの公園の夏祭りにでかけた。父も母も浴衣姿の小さな子どもを見て「可愛いね。可愛いね。」と大喜びしていた。そして,意外にも祭りの最後まで母の集中力は続き,抽選会の最後まで参加していた。そして,なんと!父がC賞に当選した!父は大喜び,喜ぶ父を見て母も大喜びだった。2000円の商品券に過ぎなかったが,とても幸せな晩になった。

 僕は,少し前から気になっていたことの対策を講じようと思った。それは,ある日,僕が,実家の門を外に出た際,ちょうど同じタイミングで,その目の前をギリギリで通過する自動車があったことである。門の直ぐ外に真っ直ぐに続く下水溝の上に敷かれた蓋の上にタイヤを載せ,その振動を楽しむかのように走行する自動車を発見して驚いた。僕が運転手の顔を見ると,速度を上げて慌てて逃げていったが,また同様のことをしないとは限らない。そこで,僕は通販で,「飛び出し坊や」を購入し,コーナンでブロックを一つ買って重石として,実家の前の下水溝の蓋の上に置いた。せっかくだから,一番可愛い飛び出し坊やを選んだ。母は気に入ってくれるかな?と思っていたら,母は大いに気に入ったようだった。
 よって,母は,夕方になると,門の外に置かれた飛び出し坊やを持ち上げて石段を登り,家の玄関の中へ飛び出し坊やを運び込んだ。それは,誰かに飛び出し坊やを持って行かれないようにするためだった。この母親の行動は全く想定外だった。もっと可愛くない坊やにすればよかったのか。しかし,ブロックごと持ち上げて石段を運びあげるのは非常に危険なので,運べないように,針金で下水溝の蓋に固定した。すると,今度は,母は父を呼び,厳しい口調で針金を取るよう命令したので,僕はやむなく坊やを撤去し,坊やはしばらく玄関の中に飾られていた(しかしこれは無意味だ・・・・・・そこでやむなく,僕は坊やを第二事務所の前の車道とわき道の交差する部分付近に置いてみた。すると,そこはM小学校へ通う子どもたちの通学路の一つであり,危険な状況が時々なくはなく,正に坊やを置くにふさわしい場所であったことを知った。ので,後に第二事務所を移転した後にも,坊やはそこに置き続けられている。)。

 また,父母の二人の生活の中に小犬がいるといいのではないかと父に提案したが,世話が大変だと言って消極的だったので,替わりに,僕は,プレオという恐竜の子どものロボット(声を掛けたり触ると,本当に生きているかのような様々な動きをするもの)を淀屋橋ODONAで購入して実家に持っていった。持参した当日は,その緑の愛くるしい姿を母はずいぶんと気に入ったので,僕は満足して帰宅した。 が,翌日は怖がったらしい。僕は見ていないので,いったいどういうやりとりの結果,そうなったのか想像し難いが,父は,プレオが動けないように,サランラップでグルグル巻きにしてバケツに入れ,さらにバケツにふたをしていた。ということで,プレオは直ぐに実家から引き上げられた。
 母の行動を予測するのは難しかった。

手のつけられない周辺症状

 うまくいくこともあるが,GPS作戦も,しばしば難航した。いつもとおり,夕方に母から電話がかかり,そのたびに僕は電話に出て,「明日迎えに行くから今日は先に寝ておいてね」とか「ハンペン楽しみにしておいてね」「もうすぐ帰るからね」とか言って,心を落ち着かせ,そのまま穏やかに就寝してくれることを祈るが,残念ながら,この日も,5回電話がかかった後に,母は,「父不審モード」で徘徊に出た。GPSで追跡して約30分後,父に近づいてもらったが,母は父に対し,「さっさと家に連れて帰って!」と怒っているらしい。父は母に電話で僕と話をさせるが,母は「どういうこと!!私が何をしたと言うの?お父さんは何を言うてるの?真人は何を言うてるの?頭おかしいとでもいうの!!」と怒りを爆発させてる。 だめだ,今日はまだ効果が出てない。やむを得ず,そのままの状態で帰宅してもらったが,22時半頃,案の定,父から「お母さん出てった。GPSは持たせた。」と電話がかかってきた。徘徊のやり直しだ。母はスーパーの方へ向かったが,時間が遅く,閉店しているので通過し,駅まで歩いて行った。やむを得ず,C子に出動を願い,C子が到着するまで僕はずっとスマートフォンの画面でGPSを追いかけていた。他方で,父には,家に電話がかかってくるかもしれないので家で待機するようお願いした。駅の近くのコンビニと思われるところでずっと止まっているが,家には電話はまだかかってこない。きっと,バイトの男の子は,認知症のおばあさんのわけのわからない言動に為す術もない状態なのだろう。
 駅付近をさまよっているところをC子が発見し,声をかけてようやく解決した。最初の徘徊から解決まで,何と3時間45分もかかった。・・・疲れた。C子もお疲れさま。
 当初は,一回の避難(約一時間),または一回の徘徊(約30分。避難より早い解決が見込めるのだ。)で,不穏が収まり,就寝することが多かったが,だんだんと一回の対応では収まらず,二回以上の対応が必要な日が増えてきた。

 ある土曜日。この日は夕方の電話は6回。それでも母の不穏は収まらず,やむなく父は外へ避難して「一人にして寂しくさせる作戦」を実行した。僕は,明日が日曜であるとの気楽さもあったので,母の好きなハンペンを買って車で実家に向かった。21時頃,父と一緒に家に入ったら母は「寂しいモード」になっており,僕たちは歓迎された。ハンペンを一緒に食べ,いろいろと楽しく話しもできたので今夜は大丈夫だろうと,安心して家(大阪・天満橋)に帰った。
 すると,22時13分,母から「すぐに来てほしいの」って泣きそうな声で電話がかかってきた。え?さっきまであんなにご機嫌さんだったのに?父からも電話があり,「あかん,出てった。GPSも投げ返してきよる。どうにもならん。」と言う(投げ返してきた?!)。まもなく父は母を見失ってしまった(なんで?!)。C子に助けを求めるべく電話をするがつながらず,やむを得ず,S太に先に寝ておくようにいいきかせて,僕は再び第二阪奈で実家(生駒市Z町)に向かった。約40分後,実家付近に着いたが,家にはまだ電話がかかってきてないらしい。一本一本,母がいないかどうか道を調べるが見つからないので,警察に捜索をお願いしようかと考えていたとき,23時半頃,父から電話がかかってきた。「警察から電話があった。今,こちらに向かっているらしい。」と言う。母は,いつもはあまり行かない方にずんずんと進んでおり,少し離れたY町で「助けて」と言って,ある家に飛び込み,驚いたその家の人が110番通報してくれたらしい。警察官がその家に到着し,母が手に持っている電話帳を見て電話をかけてきてくれたらしい。僕が実家に着いたときは,既に母は帰宅し,警察もいなかった。帰宅時,母は父に対し,「お父ちゃん!ちゃんと留守番できなくてごめんなさい。」と言ってたらしい(「お父さん」ではなく「お父ちゃん」?・・・)。

 GPS作戦も決め手とはならない。GPSを投げ返されたらどうしようもない。
「どうしよう?もっと何か根本的な対策を立てないともう無理だね」と父と話した翌日の深夜。午前1時過ぎに母から電話がかかってくると,さすがに僕は辛い。でも,父はもっと辛い。
 母が怒りまくり,家のどこに逃げても追いかけてきて怒鳴られるので,父はしばらくトイレに身を隠し,母が父を見失っている隙をついて,午前1時半頃外へ出た。僕は,父に「門扉の蝶番をかけ忘れないよう」電話で注意をした。これを忘れて家を出ると,知らない間に母も家を出ていく可能性があるから絶対忘れてはならない。 なお,この蝶番,当初は,門扉の外側上部に一つだけ付けていたが,ある晩,母は偶然この蝶番を見つけ,自力ではずして出ていったので,翌日,蝶番を二つに増やした。すなわち,手を門扉の上から外へ出し,上に付いてる蝶番をはずした後,更に腕を伸ばして,少し下についているもう一つの蝶番をはずさないと門扉が開かないようにしたのだ。
 避難するが,午前1時半過ぎであり,当然スーパーも居酒屋も閉まっている(坂の下の少し離れたところにある駅前のコンビニさえ24時間営業ではなく,閉まっている)ので,父が時間をつぶす場所はない。10月も下旬になると,深夜は寒いので,父は辛かっただろうと思う。
 僕は母の様子を探るために,実家の電話を鳴らしていたが,母は電話に出なかった。深夜に鳴り響く呼び出し音を怖がって電話に出ないのかなと思ったが,留守番電話の案内に切り替わらないので,電話機(ファックス兼用機)の電気コードを抜いているのだと思った。よって,母が「寂しいモード」になっているかどうかの確認ができなかったが,通常そうなるには一時間くらいは必要なので,20分くらい経過しただけで「そろそろ帰ってもええかな?」と聞いてくる父に対し「まだ早いと思うよ」と言った。ただ,父の声が寒そうで力弱かったので帰宅に同意した。
しかし,やはり,母はまだ「寂しいモード」になっていなかった。僕は父に,電話機の電気コードがはずれていないかどうかを調べるよう言った。すると,やはりはずれていたので父に元に戻してもらった。母は,明かりのついていない応接間のドアの直ぐそばの電話台の上にある電話機の緑に光るライトが気になるのだ。ライトの部分がだんだんと高温になり発火しはしないかと心配で,コンセントから電話機の電気コードを引き抜いていたのである。

 午前3時頃,父は「あかん。布団をたたんで,しまいはじめた・・・」と僕に電話をしてきた。電話の後ろで母が怒鳴っているのも聞こえた。僕は,父に「もう一度出るしかないね・・・。お父さん出て。C子にも来てもらうわ。」と言った。その後,父から「あかん。お母さん,ついてきよる。出られへん。」と電話がかかってきた。門扉に身体が当たる音と二人の声が聞こえるので,二人が門扉付近でもみ合いになっている様子が目に見えるようだった。
 僕は父に「母を家の中におびき寄せるから,その間に外へ出て!」「そのとき,蝶番二つともかけるのを忘れないようにね。」と言って,一度父との電話を切り,実家の固定電話の方へ電話をした。すると,期待したとおり,母が家の中の方から聞こえる電話の呼び出し音に気づいて家の中に入っていった。僕は,いつものとおり明るく優しい声で「お母さん?今晩は。久しぶりやね,元気にしているの?」「そうだ。明日,仕事ないからS太と遊びにいくね。」「そうそう。お母さんの大好きなハンペンを買ってあるから,明日それを持っていくね。」など,あらゆる言葉で,楽しい気持ちにさせようと試みたが無駄だった。しかし,父を無事に脱出させることには成功した。C子に連絡がとれたので,C子にも応援に行ってもらい,午前3時20分,ようやく母が「寂しいモード」になり,解決した。
 ああ3時20分か。今日はまだ平日なんですけど。と思いながら焼酎をグイグイ飲んで寝た。

GPS作戦

(初めて警察に助けを求めた日)
 「生駒市Z町1丁目2番3号。知ってますよね。」と落ち着いた静かな口調で電話がかかってきた。「昨日,ここに来たんです。見ると,俊彦は一人暮らし。家の中が散らかっており驚いてます。」「お父ちゃんに言われて来たんだけど,俊彦がかわいそうやし,手伝いにきた・・・」「・・あ!帰ってきたから切りますね。」と一回切れた。?。娘モード?。でも,父が息子か弟?に位置づけられていた。まあいいか,いろいろありうるからなと思いながら仕事に戻る。
 例によって何度も電話があり,何度目かの電話中に,母は父の携帯を持ったまま家を出てしまった。道を歩く人に助けを求めているのが電話を通して聞こえてくる。「後ろから変な人がついてくるんです。警察を呼んでください」と,母は叫んでいる。母が父の携帯電話を持っているので,父と話しができない!。そこで,僕は電話を切った後,C子に電話をしたが,仕事中なのか電話はつながらなかった。
 やむを得ず,実家の最寄りの警察署の電話番号を調べて電話をした。「すみません。実は生駒市に住んでいる母が認知症で・・・父と同居しているのですが,今正に母が家を出て徘徊していて,父が母を見失って・・・僕は二人の息子ですが大阪に住んでいるので,直ぐに向かっても一時間はかかりそうで,その間に母が見つからないと・・・こんなことで警察にお願いすることははばかられたのですが,ほかに方法がないので・・・」と説明すると,「大丈夫です。これも警察の仕事ですから安心してください。直ぐに探しに行きますから。ところで,お母さんの服装は?特徴は?・・」と言われてとても頼もしく感じた。
 僕は何度か実家の固定電話に電話をかけた。何度めかに父が出たので,父に,警察に助けを求めたことを説明し,警察か誰かから連絡があるかもしれないので,そのまま家にいて電話を待つように言った。

 家に戻って電話を待つというのは不安なことだが,母は,自分の名前は言えなくても(言えたとしても,たぶん「○○春美」と旧姓で名乗っているはず。),住所が「生駒市Z町1丁目2番3号」であることと,電話番号が「0743-○○-6789」であることが正確に言えたし,不思議なことに,徘徊するときには必ず電話帳(昔どこの家にもあったもの。五十音順にタグがついていてサイズも比較的大きい。)を持って出ていたので,それを聞いた人・見た人は,たいてい家に電話をしてきてくれるからだ。
 今までにも数度,電話をもらい,母を車で送ってきてもらった。そのたびに,父は大変申し訳なさそうにお礼を述べ,とても恐縮し,僕には,電話で,二度とこんなことにならないように母を見張ると力強く言うので,僕は,父をはげますために,「親切な人が多いねお父さん。明日一緒にお礼に行こう。こうやって知り合いが増えるのも楽しいんじゃない?」と言った。

 なかなか見つかったという電話はかかってこなかったが,30分くらいして,父から電話が入った。僕は,急な仕事の電話が入ってきた風を装って,会議室から外に出て電話に出たが「まだ電話あらへん。大丈夫かなあ。」という電話だった。一時間後,ようやく「お母さん帰ってきた。今,警察の人にお礼言うとる。」との電話が入った。警察の人に電話に替わってもらって僕からもお礼を言った。何度も何度もお礼を言った。うれしくて涙が止まらなかった。

(対策② GPS作戦)
 父も,少し対応に慣れてきて,母が不穏になりはじめたら,夕食のための買い物を兼ねて,「母を一人にし寂しくさせる作戦」を一人で実行することもあった。しかし,母が不穏になる時刻が夜遅い場合などは,父は,外への避難を嫌がり,奥の和室に避難して,母が僕に電話をしないように固定電話の電話線を抜いたりしていた。実際,奥の和室に避難している間に母が正気を取り戻して解決するということがあったとも思えないが,このころはまだ,父は時々一人で対応していた。
 いつも父を避難させ,外で時間をつぶした後で家に戻らせ,一人で対応させるばかりでは申し訳なく,また,父がうまく脱出できない場合があるので,そういう事態に備えて,GPSを使った対策にも慣れておく必要があると思っていた。
 小型化されたとはいえ,GPSはまだまだサイズが大きく,ひもで首にぶら下げるしかなく,ぶら下げる必要性を感じない母は直ぐに首から取るので,しばらくの間,GPSは使いようがなかった。母の服にピンなどで止めようとしたが重すぎて無理だった。そこで,父とあれこれ考えた結果,赤くて(母はとても赤色が好きと知ったから)小さくて可愛いポシェットにハンカチやティッシュと一緒に(住所と名前と電話番号を書いたメモも)入れて玄関に置いておいた。出ていきそうになったときに,「これ持っていきっ」て言って渡す作戦だ。家を出ていくときは,怒りまくっているときが多いから,これを持たせることが可能かどうか疑問はあったけど,いったん持ったら,途中で捨てることはないと思ったから(何でもモッタイないと考える傾向があることと,電話帳は必ず持ったまま帰ってきていたから)試す価値はあると思った。

 なかなかうまく行かなかったが,平成20年8月3日,初めてGPS入りポシェットを母に持たせることに成功した!。父によると,どうしてよいかわからず,思わず母にポシェットを投げたらしい。すると,母は本能的にキャッチして,ポシェットを持ったまま出ていったらしい。父からそのことを聞いた僕は,初めて,ココセコムを使い,パソコンの画面を見て母の動きを追跡した。
 母のことは心配だったが,ココセコムで追跡するのは初めての経験でもあり,何だかわくわくした。父に,「今,家の前の坂道を東へ(Hクリニックに向かって)下っているよ。」とか,「あれ?止まった。」「動かなくなった。」「あ,動いた動いた。逆戻り。今度はPスーパーの方へ行った。」など伝えて,遠巻きに母を見守ってもらった。一時間くらい経ってから,父が何気なく母に声をかけると,「お父さん!?よかったー。道に迷って帰れなくなったのー」と言われて万事解決。二人は仲良く家に帰り,僕は仕事を再開した。
 しかし,この日はたまたまうまく行ったが,父の尾行はやはり拙く,しばしば母にバレて事態を悪化させた。母は「不審者」(=父)が追ってくるので怖がり,追跡が続く間は一向に不穏は収まらず,母は人の家に飛び込んで助けを求めるのだ。慌てて父は,その人に事情を説明するが,母はその隙に逃げ出し,徘徊は最初からやりなおしとなった。要するに,徘徊の場合も,不審者の尾行が続くとその間は全く事態が改善されないので,しばらく放置する必要があるのだ。そこで,徘徊開始当初は父を母から離し,母から見えない場所に誘導し,途中経過は随時父に報告し,30分くらい徘徊した後,または母の動きが止まったときに,母のいる場所に向かってもらうことにした。

 たとえば,ある日の夕方,母は,ぐるぐる近所を回った後,実家の直ぐ近くにある創作料理店を訪ねていた(母の所在地を示すマークが,道の上ではなく,建物の中に入り込んで止まっていた。場所を思い出すと,たしかCoCoという名の店があったと思い出した。)。既に暗くなっていたところ,その店は店内の明かりが歩道に漏れているから,母が助けを求めて訪ねたくなった気持ちがわかるような気がした。父に電話をして店に向かってもらったら,母がしょんぼりと店内で椅子に座り,マスターからもらったお茶を飲んでいるところだった。母は父を見るととても喜び,喜ぶ母の顔を見た父は(きっと)泣きそうな顔になりながら母の手を取り,家に帰った。
 かようにして,何度か,母にGPSを投げ渡した上で,敢えて徘徊させて正気に戻るのを待つ作戦もとってみた。交通事故の可能性が全くないわけではないから,車道の方に向かったときだけは父に介入してもらって中断させたが,なるべく自由に歩かせることにした。
 父が僕に「お母さん調子悪い。今から,お母さんを外に出してもええか?GPSはもう持たせた。」と電話をしてくるので,僕は,パソコンの前に座ってゴーサインを出した。ただし,この方法では,僕がパソコンの前から離れられないし,僕がパソコンの近くにいないとこの方法をとれないので,僕は,いつでもGPSの位置を確認することができるようにするために,従前から使用している携帯電話に加えてスマートフォンを契約した。
 ただし,店とか公園とか目印となるものがない道を母が進んだ場合は,父への説明が難しい。父(当時75歳)に「中央公園の三本西の道を北に向かって歩いているところ」と説明しても,なかなか理解してもらえない。父も初めて通る道が多くて現在位置がわからなくなるから,父の現在位置から,どう進んだら母を見つけられるかを伝えることができなかった。父にもGPSを持たせたいくらいだった。そこで,後日,僕は,各戸の名前が記載されている詳細な住宅地図を買い揃え,これを見ながら,父に「お父さん,目の前にある家の表札に何て書いてある?。で,その隣は?」と聞いて父の現在位置を探り,その上で,父の進むべき方向を前後左右で指示して,母の居場所を教えることにした。

 この頃(平成20年8月頃)は,だいたい4日に1日くらいは夕方の電話もなく無事に過ごせるが,4日に3日は夕方に電話が頻繁にかかってくる。そして,その3日に一度は僕との電話だけで落ち着いてなんとか就寝するが,3日に一度は父が避難し(約一時間),3日に一度は母が徘徊(約30分)した後でないと,一日が終わらない。それでも,避難や徘徊は一日一回で収まっていた。しかし,平成20年の9月以降,それでは収まらない日が増えてきた。

息子じゃなくなった日

 もともと母はあまり物を捨てず,何でもとっておくから,家の中が物であふれかえっており,いつの間にか応接間が物置になって使えなくなってはいた。ところが,ある日実家を訪ねたとき,台所や居間にも見慣れぬ物が置いてあったので父に聞いたところ,母が運び込んだとのことだった。動かすと怒るらしいので,僕もそのままにしていたが,母が不思議そうに「これ誰の?なんでここにこれがあるの?わけわからへん。」と言っていた。この日は,気分転換にとS太のDVDをかけても集中力が全くなかった。
 母は間違いなく認知症。短期記憶にかなり障害が生じているから。しかし,まだ専門医の診察を受けて確認したわけではなかったし,内科医のH先生も,僕は専門じゃないから,早く専門の医師にも診てもらった方がよいよと言っておられた(治る認知症もあるからね)。
 そこで,平成19年12月11日,ようやく,脳神経外科でMRIを撮ってもらった。母はMRIの音が怖く,じっとしていることができなかったので,撮影にはずいぶんと困難を来しているようだった。それでも,ようやく撮影が完了し,先生に診断してもらったところ,脳全体が萎縮し,とりわけ海馬が萎縮しており,明らかにアルツハイマー型認知症であると診断された。ずいぶんと進んでおり,アリセプトはもうあまり効かないのではないかとも言われた。当然の結論だとも思ったが,やはり,はっきり言われるとショックだった。父は,あの状態を見てきているのに,「認知症ではない」のではないかとさえ思っていたらしく,そのショックは見るからに大きかった。「もう治ることはないんですよね」と言い,涙をあふれさせていた。

 いつのことだったかは,もう思い出せない。
 最初に,もしかして母が僕のことをわかっていない?と思った瞬間があったはず。でも,それがいつであったかは忘れてしまった。あまりにも恐ろしい出来事だったから,僕の脳が,防御的本能的に記憶を消したのかもしれない。また,「僕のことがわかっていない?」と思った最初の瞬間は,母が不穏でいる数時間の間に起きた事柄だったので,その後平常に戻ったときには当然に僕のことも思い出しただろうと思って安心したからかもしれない。
 平常に戻っているはずなのに,僕のことがわかっていないということを思い知る瞬間もあったはず。でも,何でそれを知ったのかがやはり思い出せない。ただ,それを知ったのは実家に泊まった日の夜であったことはたぶん間違いがない。なぜならば,翌朝,両親がまだ寝ている間に僕は実家を出て,最寄りの駅に着くまで,母がとうとう昨夜「僕のことが本当にわからなくなった!」「これは夢ではない!」とつぶやき,泣きながら坂を下っていたときのことをはっきり覚えているから。でも,このことで泣いたのはこの日の朝だけだった。この日の朝,僕は,ようやく母の認知症を受け入れたのだと思う。

 「僕のことがわからなくなった」とは,僕が息子であるということがわからなくなったということ。このことがわかったのは,たとえば,「C子に良い人いないかしら?まさと君はどう?C子とつきあってみたら?」という言葉だったかもしれない。要するに,妹は自分の子とわかっているのに,僕が自分の子とわからない状況である。母が不穏になっても,僕が話しかけると少し回復することが多いので,「やっぱり息子さんが話すと違うねえ」とケアマネやヘルパーは言って信じないが,それは僕が話し方を工夫しているからに過ぎない。母は僕が息子であるとはわかっていないのだ。
 しかし,その後も長い間,母は,僕の名前が「まさと」であるということ自体は覚え続けており,敢えて気にしなければ,母の僕に対する話し方は見た目はあまり変わらず,息子に話しかけているようにも見えるから,このことは,それほど辛いことではなくなった。

(見当識障害)
 そういえば,ずいぶん前に,「ちょっと外に出たの。いい所だなあと思いながら・・・家を出たときは明るかったのにすぐに暗くなってきて,気づいたら迷ってた。こんなこと初めて・・・」と泣きそうな声で電話で話してたときがあったが,それが徘徊の始まりであったのかもしれない。要するに,自分が「地理的」にどこにいるのかが分からなくなるということ。また,徘徊が頻繁に起きるようになったころ,母はしばしば娘時代に戻り,僕が小学校のときに死んだおじいちゃんやおばあちゃんが生きていることになったが,要するに,自分が「時間的」にどこにいるのかが分からなくなるということ。そして,いつのまにか,自分が「身分的」にどこにいるのかも分からなくなっていたということである。でも,少し考えたらあたりまえだ。母が娘時代に戻ったら,僕はまだこの世に存在していないから。そういえば,そのときは,父もまだ母と出会っておらず,それ故,しばしば父の身分的な位置づけがあいまいになるから,父は「俊彦おじさん」と位置づけられて大切にしてもらえるか,「不審者」が家に入り込んだと位置づけられて,激しく排除されるかのいずれかになっていたのかもしれない。

 それでも,会って話しているときにふと,母から「最近,息子はあまり帰ってこなくてね・・・」っと言われたり,電話で普通に話している最中に,「ところで,真人くんのご両親はお元気なの?」と言われたときは,一瞬言葉を失うが,繰り返されることにより慣れて,間もなく笑えるようになった。
 ある日は,父や妹もいる夕食時に,母が,「俊彦がC子に好意をもっていた」とか,「俊彦が自分にも好意をもっている」とか言うので(後者は正しいが),「お母さん何かおかしいよ」って笑って指摘すると,母も笑った。

 突然親に死なれると辛過ぎるので,死ぬ前に認知症になり,徘徊して少し困らせ,息子とわからなくなって少し悲しませ,言葉のやりとりを徐々に減らし,感情的にも距離を置かせて,少しずつ,別れの日のための心の準備をさせてくれているのだと思う。

 平成20年6月,父と僕は母を連れて,矢田寺に紫陽花を見に行った。母は紫陽花が大好きなので上機嫌で歩き回っていた。天気も良く,とても気持ちのいい日だった。父と僕は,「連れてきてよかったね」と言い,後ろを歩いているはずの母を振り返ったら,母の手には紫陽花の枝がしっかりと握られており,母は,更に二本目の枝を物色していた。「あっ!」父と僕は同時に声をあげた。僕は母に駆け寄り,「これ僕が持っといてあげるね」と言って紫陽花の枝を母から受け取り,素早く母の見えない場所に回り,紫陽花の茂みの中に枝を隠した。ああ,驚いた。よっぽど紫陽花が気に入ったのだなと思った。そして,本当に連れてきてよかったと思った。

留守番してびっくり短期記憶障害

 実家滞在中,父の友達からの電話に出ていた父が,「いやあ。家内が病気なので,申し訳ないけど失礼させていただくわ・・・」など話していたので,電話が終わるや,僕は父に対し「お父さん,行っておいでよ。たまには息抜きしないと。一時的な病気ではないんだから。」と言って,父が飲みに行く日の夕方,僕は実家で母と留守番をすることにした。
 僕は,カレーの材料を買って実家に行き,カレーを作りながら母と話した。日が沈み,暗くなってくると,母は落ち着かなくなり,家の中の物を取り出したり片づけたりしているようだった。「お母さん,カレーできたよ。食べようか。」と声をかけて居間に呼ぶと,今度は,僕に対し,「お父さん遅いね。いつもなら,遅くなると,何時に帰るとか,お父さんから電話があるはずなのに。」と言っている。これに対し,僕は,さりげなく「あ,そういえば,お父さん,『今日は仕事が遅くなる』って『だから,先に夕食たべておいて』って言ってたよ。」と言うと,母は「そうだった?そう。それならいいけどね。」と言う。さあ食べようかと声をかけても,全く食べようとはせず,一分後,母は,今の会話が全くなかったように,僕に対し,「お父さん遅いね。いつもなら,何時に帰るとか言ってお父さんから電話がかかってくるんだけど。」と言っている。え?と思う。短期記憶に問題が出てきていたことはもちろん知っているけど,今話したばかりだよね?と驚いた。もちろん,もう「お母さん,さっき話したばかりだけど,お父さんはね・・」と言うことはもうない。僕はもう一度,「あ,そういえば,お父さん,『今日は仕事が遅くなる』って『だから,先に夕食たべておいて』って言ってたよ。」と言うと,母も,「そうだった?そう。それならいいけどね。」と繰り返す。二分後,母は,初めて言うように「お父さん遅いね。せっかく真人が来てるんだから早く帰るよう電話してみるわ。」と言う(少し違うね!)。
 僕は,せっかく母のことは忘れて友人との飲み会を楽しんでいるであろう父に今電話をかけさせたら台無しじゃんと思ったので,「今日はね,お父さん仕事で飲み会があって遅くなるらしいよ。僕がここに来ることを知ってるから安心して電話してこないんじゃない。」と言ってみた。すると母は「あ,そうなのね。じゃあいいわね。」と言って納得した。すると一分後(本当に一分後),「お父さん遅いねえ。せっかく真人が来てるんだから早く帰るよう電話してみるわ。」と言う。これが本当に何十回(いや滞在時間から逆算すると100回を越えてそう。本当に一分とか二分とかの間隔で延々と繰り返されたのだから。)も繰り返された。「カレー食べようか」と言っても全く食べようとせず(?なんで?),「おいしいよこれ」と言ってスプーンで口まで運ぶと,恥ずかしがるような顔で「ふふふ」と言ってようやく一口だけ食べ,「おいしい?」と聞くとうれしそうに「おいしい」と言うが,やはりそのあとも自分では全く食べようとしなかった(?なんで?)。そしてまた「お父さん遅いね」って言う。
 もしかして,毎晩こうなのか?毎晩父親はこの繰り返し攻撃にあっているのか?と驚嘆した。これが毎晩では気が狂ってしまいそうだ。

 実は,この日,この短期記憶障害の状況を目の当たりにするまでは,ここまでとは思っていなかったので,父が,母の認知症を理解せず,たとえば,物を移動させる母をあまり我慢せずに叱ったり,ぜんぜん夕食を食べようとしない母をあまり我慢せずに叱ったり,なかなか寝ようとしない母をあまり我慢せずに叱ったりすることによって,母を怒らせ,不穏を生じさせているところが少なからずあるのではないかと思っていた。実際,実家滞在中に,父が母に「こんな物をこちらに運んで来るなって言うたやろ」と怒った口調で言うと,母は目に涙をいっぱいためて「もう!そんな言い方をするんやったら・・・死ぬよ!」と言って唇をふるわせるような場面を目の当たりにしたことがあったからそう思っていたが,それだけが原因ではないなと感じた。仮に父のそのような言動がきっかけになっていたとしても,それは誠に仕方のないことだと思った。

(火事と泥棒)
 母にとって,この家はとても大切。G駅にほど近い新しい住宅地として昭和50年代前半に売り出された。母にとって(おそらく父にとっても)夢にまで見た庭付き一戸建て。父は母のこの夢を叶えるために,贅沢をせず,ゴルフもせず,こつこつと住宅ローンの返済に精を出していた。だから,母にとっては,この家が火事になっては大変!泥棒が入り込んだら大変!なのであり,母の頭には常にこのことがあった。認知症になってからも,火事と泥棒のことは母の頭から消えることはなかったはず。ずいぶんと認知症が進んで他の話題には興味を持たなくなった頃にさえ,父と僕が火災保険のことについて話していたとき,母が突如話しに入ってきて,「お父さん,火災保険はちゃんとかけておいてね」と言ったこともあったのだから。
 留守番をしたこの日,家の中を見渡していて気づいたが,台所の壁に最近取り付けられたと思われるお風呂のスイッチの緑のライトの上にマジックで黒く塗りつぶされた小さな紙が張り付けてあるのを見つけた。きっと,母が気にするので父が張り付けたのだろうと容易に推測できた。
 夜も遅くなってきたので,僕は台所の電灯を消し,隣接する居間(和室)へ移動したが,台所と居間の間の襖はあけたままにしておいた。すると,台所の天井近くにある緑色の小さな光を見て母は「あれは何?」と言うので,僕は,「あれはガス漏れの探知機だね」と言い「万一ガス漏れがあったらブザーがなって知らせてくれるから安心だね。」と付け加えた。母は,その光がとても気になるらしく,その後は,「お父さん遅いね」,「真人来てるから電話するね」,「あの電気はなに?」の繰り返しに変わった。どうしても気になるらしいので,僕は,台所のテーブルの上立ち,手を伸ばして,父がしたのと同じように,紙をマジックで黒く塗りつぶしたものを緑色の小さなライトの上に張り付けた。
 すなわち,母は,「常時点灯しているライトは,いずれそこが熱を持って高温になり,やがて発火する」と考えるから気が気ではないのである。
また,母の考えでは,「家を留守にすると泥棒が入る」ので,家を留守にして全員で外出することはできず,母と外出するときは父に留守番をしてもらい,父と母と三人で出かけるときはC子に来てもらいC子に留守番をしてもらう必要があった。

 突然,母が「電話かかってきた!」と言って応接間の方にかけていった。応接間に固定電話が設置されていたのだが,僕は電話が鳴っているのに気づかなかった。やはり,母は父からの電話を待ちわびていたようだ。うれしそうな顔で居間に戻ってきて「お父さん,駅に着いたって」と僕に告げた。何て嬉しそうにするのだろうと思った。途中,僕は父を安心させるために,「今,テレビを見ながら一緒にカレーを食べているとこ」と書いたメールを送っていた。父はもちろんこれを見ていたと思うのだが,母が気になるのか帰宅はずいぶんと早目だった。「もう少しゆっくりしてくればよかったのに」と僕は少し不服だったが,嬉しそうな母を見る父の顔も嬉しそうだったのでまあいいかと思った。結局,母は,僕がスプーンで口に運んだ分しか夕食をたべなかった。毎日こうなんだろうか?Hクリニックで血液検査をした結果,特に異常はないと聞いたばかりだったので,そんなに心配をする必要はないのかもしれないが。

 この日,何度も何度も母が「お父さん遅いね。・・・お父さんから電話があるはずなのに。」を繰り返し,父に電話をしようとしたので,僕は台所の目立つところにホワイトボードを吊り下げ,父に母への伝言を書くようお願いした。父は「お母さん(ハルミさん)え。山竹会(注;親睦会)に行きます。九時ころ帰ります(トシヒコ)」と書いていった。目立つところに吊り下げたが,母はやはり,「お父さん遅いね。・・・お父さんから電話があるはずなのに。」を繰り返した。僕は,何度も何度も「あ!お母さん,ここに書いてあるよ。」と言って母をホワイトボードの前に呼んで指し示すが,母はそのたびに「あ!ちゃんと書いてあるね」と言って納得した。何回目かに違うバージョンがあり,そのときは「何か,ていねいな書き方やね。」と大好評だった。

母はいつから認知症に?

(うつ? → 統合失調症? → 認知症)
 「ジェジェ」は室内犬のヨークシャテリア。昔,まだ僕が中学生で,実家から学校に通っていたときに父が連れてきた。母はジェジェをとても可愛がり,ジェジェもよくなついていた。
 母は,ジェジェを近くで遊ばせながら,家の庭で様々な園芸の作業をするのが好きだった。また,お喋りが大好きで,ジェジェを抱きかかえて家の前を行ったり来たりし,たまたま顔を出した近所の人を見逃さずに話しかけた。家の正面の奥さんは,そのころのことについて,「ジェジェを抱えた春美さんにみつかったら二時間は覚悟しなきゃ」と笑いながら言っていた。このころは,毎年春には庭がチューリップだらけになっていたが,ある年からは全く見られなくなった。

 まだ認知症のことに思い至らなかった頃,相当長期にわたり,母がいつも不機嫌で,体調もよくなく,ずっと家に閉じこもっていたと思われる時期があった。僕は仕事が忙しかったこともあり,年に数回しか実家を訪ねなかった。久しぶりにS太を連れて実家に帰っても,父は大喜びでS太と遊んでいるのに,母は奥の和室に入ったまま出てこなかった。父が母に声をかけても,母は襖を開けず不機嫌に「寝かせといて」と言い,父が再び「S太くんが来てるよお母さん」と明るく声をかけても,「もうええ」と怒鳴るような状況だった。僕も,できるだけ優しく明るく声をかけて,近所の公園に散歩に出ようと誘うが,襖が開く気配はなかった。
 すると,目の前をジェジェがよちよちと和室に向かっていき,小さく二度吠えた。すると,襖が静かにスーッと10cmくらい開いて,ジェジェが入っていくと,襖がスーッと閉じられた。僕はあっけにとられたままその一部始終を見ていた。そのジェジェもずいぶん前に死んでしまった
 そんな母が,完全に家に閉じこもり,人と話さなくなった後は,時々妄想を言うようになっていたなあと思い出した。当時は,そんなことは思いもよらず,ほぼ聞き流していたが,今思えば妄想だったと思う。ただ,100%架空の事実を空想しているのではなく,実際に起きた取るに足りない小さな事実を極端に自分に関連づけ,誇大に意味づけをして思いこむ類の妄想だったんじゃないかと思う。すなわち,よく聞かされたのは,小さな子どもが家の門のところに来て,母に対し,声をひそめて「おばちゃん一人?」って聞いてくるというもの。母によれば,これは,押し売りや強盗が,子どもを使ってターゲットを物色しているというのである。だから,母はその子どもに対し,「違うよ。お父さんや息子も家にいるよ!なんやったら呼ぼか!」って言うらしい。すると,子どもはピューって逃げるらしい。ほかには,黒い服を着た数名の男たちが,私たちの行動を監視している。とか,門柱をグラグラと押し倒そうとする者を見た。とかいう話しを繰り返し聞かされた。
 「来てほしい。おかしい。ピアノのある部屋のカーテンの後ろにしゃがんでる人が怖い。見たことがある人・・・」という電話もよくかかってきた。本当に怖そうに言うので,僕も心配になり,父に電話して,「今,いるらしいから,ちょっと庭を確認してみて。」「気を付けてな。」「万一,誰かが庭にいたら,直ぐに警察よんでな。」と言うが,不審者は見あたらなかった。僕は,当時,母には幽霊が見えるようになったんかなとも思っていたが,これが,夜になって鏡のようになった応接室のガラスに映った自分の姿を見ていたんだと気づいたのはずっと後になってからだった。
 また,今思えば,母は,夜になると「頭痛い,頭痛い」と父に訴えることがよくあったし,僕への電話でも,「わけわからへん。私頭おかしいのかな?」,「わけがわからない。なぜ私はここにいるの?どういうこと?なぜ皆黙っているの?」,「なんかぼんやりしてる。わけわからない。庭に出ても,何をしようとしていたのかわからない。たいくつたいくつ」など言うことがたびたびあったが,正に,脳が萎縮し始め,認知症が進行していく状態を感じ取っていたのであろうか。

(対策① 一人にして寂しくさせる作戦)
 「話せばわかる」と言うけれど,最強悪態モードに入った母と「話せばわかる」人は誰もいない。Mのおばあちゃんでもだめだと思う。・・・ジェジェなら可能だったかもしれないが,ジェジェはもういない。とにかく,最強悪態モードになったときは,いくら母と話しをしても事態が改善することはないので,そういう場合は,黙って家から脱出し,母を一人きりにすることが大切であることを経験から学んだ。
 母を一人きりにすると,(対象がいなくなるから)怒るのを止め,黙々と何らかの作業をするのだと思う。そして,しばらくして,はたと一人であることに気づき,寂しくなってくるのだと思う。一時間もすればたいてい母はとても寂しがっており,そこへ誰かが帰ると,「よかった。びっくりしたー。どこに行ってたの?これからはちゃんと言って出かけてね。」と言って大歓迎されるからである。
 父が家を出て避難すると,直ぐに,母から僕に電話がかかってくる。最初は,「どういうこと?みんなが好き勝手なことばかりしとる!」など怒りまくった電話がかかってくるが,もうしばらくすると,その内容は「寂しいの。誰か来てほしい。前にもこんなおかしな状態があったような気がする。」というものに変わってくる。このことを確認した後,僕は父に対し,「帰ってよし」と伝える。当初は,この作戦が効果てきめんで,その間,父は近所の居酒屋で一杯飲みながら,僕の電話を待っていた。ただし,父外出中に,母も家を出てしまうと,母は家に戻れないし父が母を捜すこともできなくなってしまうので,門扉に,門扉の外から蝶番を付けることにした。すなわち,この門扉を開けて外へ出るためには,門扉の内部にある本来の鍵を開け,更に門扉の上部の外側(母から見て裏側)に手を回し,この鍵も開ける必要があるが,門扉の外側(裏側)に蝶番のあることを覚えられない母はこれを開けることができず,門扉を開けることができないということだ。また,父が単独の脱出に失敗し,母が一緒に外に出てしまうことがあるので,そんなときには母にGPSを持たせてしばらく好きに歩かせるため,市役所からGPSをレンタルし万一に備えることにした。

要介護認定は受けたが

 市役所から紹介された「前のめりでお節介なケアマネのOさん」は,家族だけで対応するのは大変だから,ヘルパーを入れてお父さんの負担を緩和しなければならないと力説し,近所のH先生が診療時間外に母に会ってくれると約束を取り付けてくれたので,僕と父は,ダメもとで母をH先生のところへ連れていく作戦をたてた。
 介護認定を受けるための「認定調査票」は,市役所の職員が自宅を訪ねてくれるので,母と会ってもらいさえすれば,母が調査に協力をしなくても不機嫌でも,そのこと自体からいろいろと状況を知ってもらえるが,「主治医意見書」は,病院が大嫌いで,自分の身体には何も悪いところはないと確信している母を病院に連れていくことがどうしてもできなかったので,今までその作成を断念し,介護認定の申請もできないでいた。何カ所かの病院で事情を説明し,通常の診察時間に母を連れてくることが不可能だから方法を工夫してほしい,または往診を検討してほしいと相談したが,どの病院も冷たかった。お困りの家族は多く,お宅だけを特別扱いするわけにはいきませんということだった。主治医意見書作成の段階で半年以上頓挫した。
 けれども,「前のめりでお節介なケアマネのOさん」に背中を押されて,ダメもとで,Hクリニックにチャレンジすることになったのだ。それでも,僕はOさんに「無理ですよ。Oさんはうちの母が凄いのを知らないからそんな気楽なことを言うけど病院なんて無理。絶対無理。」と言っていた。きっと,母は「行く必要ない!!」「どこも悪くない!」「(病院には)行きません!」と,歯を食いしばるようにきっぱりと宣言し,テコでも動かず,すべての段取りが無になることが明らかであるような気がしたからである。
 実際,一度目は「65歳になったら皆が健康診断に行くことになっているからね」「お父さんも行くよ。近くだから行こう。」と言って外出を促したけれど,母は「行きません!」と宣言して一歩たりとも家を出ようとせず,失敗した。
 二度目は,「健康診断」という言葉を使わず,T町(母の実家のある町)に行くフリをし,ようやくの思いで車に乗せたが,Hクリニックの前で父が降りても,母は降りようとしなかった。しかし,それと気づいた看護師さんが出てきてくれて,母に優しく声をかけると,なんと母は車を降り,連れられて中に入っていった!幸い,Hクリニックは,小じんまりした綺麗な診療所であり,病院ぽくなかったので,「綺麗なとこやねえ」と母は上機嫌だった。加えて,H先生も,看護師さんも優しく,そのことが顔に表れているような人たちだったので,母も安心し,「どこも悪いところはないんですよ。」と言いながらも,ふつうに診察を受け,聴診器も胸にあてさせた。これにより,主治医意見書を作成してもらい,要介護認定を受け,ヘルパーさんを入れることができる状態にはなった。なお,ここの看護師さんは,後日,この母から採血まで成し遂げたし,母がどんなことがあっても絶対に人に切らせることのなかった足と手の長い爪(長すぎて巻いている)を見事に切ったのだ。
 このときに思ったのは,一方で,母は短期記憶や日常生活に必要な判断能力を衰えさせたが,他方で,人を見抜く能力は研ぎすまされているのではないかということだった。 この人は「もひとつだな」「どうしよう」と私が少し疑問を持つヘルパーは,私が何か言うまでもなく,母からはいきなり拒否され,容赦なく排除されていたから・・・。掃除をしにきたそのヘルパーは,憮然とした表情で「拒否されるんだから仕方ないですよね」と言わんばかりに帰っていくが,やはりだめな人だったと母に感心した。

 僕と父は家の掃除をする人を必要としているのではなく,必要なのは母の楽しい話相手であり,僕が必要としているのは,父を励ましてくれる明るい人だった。しかし,そういうヘルパーさんにはなかなか出会えず,母はしばしばヘルパーを追い返し,その後,父に対し「二度と来させるな!」と歯を強く噛みしめながら言い,鬼の形相で父に約束させるのだ。追い返されるヘルパーの中には,自分が追い返されるのは不当だと考え,憮然とするのみならず,猛烈に怒るまくる母の顔を見て笑う者がいたが,僕は,思わず「笑うのはおかしいやろ。認知症を知らないのか?」「笑うのは人格を尊重していない証拠。介護の基本がわかってないのじゃないのか!」と怒鳴ってしまった。
 また,せっかく母が穏やかにしているのに,ヘルパーが来たとたんに不穏になり,それを意に介さず,「掃除をさせてもらえなければ私だって困るんですけど」という態度で家の中に入るヘルパーに,母が激高して手に負えなくなり,父に「(ヘルパーを)追い返せ!」と怒鳴るから,父にすれば,せっかく穏やかに過ごしていたのに,ヘルパーが来て台無しじゃないかとなる。「何がヘルパー(助ける人)だ!逆効果だ!」と,父はよく僕に訴えていたが,僕も頭が痛かった。ヘルパーを指名したかったが,無理な話だった。

(徘徊③ 最強悪態モード)
 通常の日は,母が「今から直ぐに来てほしい」と言っても,「S太一人置いていかれへんやろ?S太のご飯もまだ作ってないし。」と言うと,ハッとした感じで気づき,「そうか。そうやねー。Sちゃんが可愛そうやね。そらあかんわ。ちゃんとSちゃのんことしたってね。」と納得していた。S太が小さな子どもであることを覚えているからだ。このころはまだ,S太の写真とか録画したDVDを持っていくと,これを見て大いに楽しんでいた。
 しかし,不穏な感じで「T町に帰ります。一人でも行きます。」と電話がかかってきたときは,「明日行こうか?」と言っても「明日じゃあかんの。」と言い「名前思い出されへんけど悪い奴もおるし。」と言うので,「悪い奴って,お父さん?」と聞くと「お父さん,おらへんよ!」と言い,そして「怖いの。すぐに来て!!」と怒鳴った。こんなときは,いくら「S太が」と言ってもだめで,無理に説得しようとすると,強く歯を噛みしめて「・・もう来ません!!(もう来んでいい!という意味だと思う)」と言って電話は切られた。 ただし,この日は家を出た後,直ぐ近所にいるMおばあちゃんの家にかけこんだらしい(Mおばあちゃんは母よりずいぶん年長で,優しい人だから,母はいつも慕っていた。)。僕は,C子に出動を要請した。その後,実家に着いたC子によると,Mさん(Mおばあちゃんの息子)から「少し落ち着いてきたけど,もう少しいてもらいますよ。」と言ってもらったので甘えることとしたとのことだった。しばらくしたら,小さな西瓜を大事そうに抱えた母が,Mおばあちゃんの家からニコニコしながら出てきた。母は,C子を見ると正気に戻り,家に誰も留守番のいないことに気づいて,慌てて家の中に入ったが,この日これでは終わらなかった。
 24時過ぎ,父から電話があり,替わった母が僕に対し,いきなり「いったい私に何をしたの?言いなさい!私が何を悪いことしたの?!年はとったけど私まだボケていないよ!謝りなさい!!」と言う。「何も言ってないやんか!」,真夜中だし,二度目の対応にうんざりした僕の声は少し大きくなってしまったと思う。すると,母は更に興奮し,「私を殺そうとしたんか?警察呼ぶよ!!」・・・延々と悪態をついた。   
 やむを得ず,僕はC子に出動を願った。・・・申し訳ない・・・。